昭和五十三年八月十六日  朝の御理解


御理解第八十六節  女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものが出来ぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ。

 女が良うなければと云うことはどういう事であろうかと、よいと云う意味においてもいろいろありましょう。
私は、今日ここんところを思うてみてここ二、三日、女と云う字のはいったお知らせを次々と頂く、女偏に古いと書いて姑、ウ冠に女と書いて安心の安、四、五日前でしたがくノ一ということを頂いた、くの一と云うのは女と云う字をくの一とこういう、くの一と云うのは女の忍者のことを云うそうです。
云うなれば、変幻自在と云うことですか、自分の心を自由自在に使いこなせる人、素直に有り難くね、すべてを良い方へ良い方へと頂いてゆけれる人。阿倍野の伊藤こうと云う先生はもう八十幾つでありなさいましょうか、布教にでられて去年が丸五十五年になられる、学校の先生をなさり、非常に頭の良い方だったようですね。
もう何時も最高の成績で小学校、中学校、師範校と云う風におかげを受けていかれた、教導力が素晴らしかったらしいですね、ご自身が書いとられるご本の中に、昔は校長先生の試験と云うのがあった、私共もそれがありましたですね、だから担当の先生が変わられて試験をされる訳です、そう言うときに自分の受け持った子供は、九十点以下をとった子供はいなかったという位に教導してあった訳ですね。
そりや、やはり教導の天才でおありになったということでもありますけれども、その根本が素晴らしかった。
もう、どんなことであっても喜びで受けると年十八歳のときであんなさったですかね、何か話を聞かれてそして、もう愈々どんな場合であってもそれを有り難い方へ有り難い方へと頂くこと、それを私の一生涯の修行にしようと心に決められて五十五年間それを貫いてゆきなさった。
この方の道は喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせんとおっしゃる、その教祖のお言葉をそのままに苦労されるどころか大変なお徳を受けられて、ああ言う沢山の人が助かる、月々二列車のご本部参拝があるというのですが大変な事です。
本当に女の一念岩をも通すというが本当に女の一念というものがそのような働きになって来るわけです、云うなら、実意丁寧神信心実意とは執念のことだ、と泉尾の先生はいっとられる、貫くことだて云うとられる、それはどういうことがあっても信心をしておってどうしてこの要な事がと、例へ続きますとも、それを有り難い方へ有り難い方へと、頂き抜き、頂き続けられた、そこにああいう大徳を受けられた。
貫くことなんだと、そしてまあ、今日の御理解を頂いて思わせて頂くのですけど女は世界の田地だと教えられる、そこで私は思うのに、合楽は世界の田地だという風に頂いたらどうでしょうか、これは例ば、祝詞言葉とか唱え言葉だけではない、私はそう確信する、このお祝詞を書かせていた大とりますけれども、合楽理念をもってする他無い、世界の平和はどこのどういう教えをもってきても、勿論、それは、教祖金光大臣の教えにですけれども、それを合楽理念ほどに、誰でもが行じられる。
誰でも分かる、どこにでも浸透していけれる普遍性をうたいあげた理念は無い、助かりの理念云うなら、世界中が助かる理念だと私は確信するです。ですから合楽は世界の田地だと、だからここの田地が肥えてここから良いものが産みなされて、良い信者がどんどん出来てゆく、良い御道の先生が合楽からどんどん産みなされてゆく、そして、云うならば世界各国にゆけれるところはどこにでもです、合楽理念をもってすれば海外布教はそんなに難しいことではない。
と云う様な確信をもって合楽がいよいよ世界に広がってゆくところのおかげを頂く、合楽はだから、世界の田地だ、最近、その女という字の伴うた事を頂き続けて今日の御理解を頂いとりますから、そう云う風に感じるんです。
女は、もう世界の幸せの母体になるんだとまあ、母体そのものが素晴らしくなければ良いものは産まれないということであります。
そこでです、合楽理念をもう一辺検討させて貰いたい、どのように自分の信心の上に現されておるかということを思わせて貰うと、実際は出来ていないことに改めてまた驚く昨日一日の私の体験から昨日の前夜祭のあとのお説教で聞いて貰いましたように、昨日、或る方が明日は御大祭でちゃんとお参りするごとしとりましたが、急に東京からお客さんがあって居らん訳にはんかんのですが、大祭の方をとらせて頂く方が良いでしょうか、家に居った方が良かろうかと云ってお伺いがあつた、もうその人は、信心も分かり合楽理念もよう分かっておる方なんです、だから私は電話を受けてから、「そりゃお客さんが見えるなら家におんなさったがよかろう」と私が申しました。
「それで良いでしょうか」「よかくさあなた」というて冷たい感じでお取次ぎさせて頂いたんです、ヒョットして今日は出て来るかしれん、昨日親先生がえらい冷たい風で、家でお客さん待つとったがよかくさいという風に申しましたからね、やっぱりそれが気になって、やっぱりお客様を振り捨てて合楽の方え向かって来られるかも知れません。
けれどもね、合楽理念の根本というのはね、一にも神様、二にも神様、三にも神様、これが合楽理念の根本ですそりゃどう言うことかというと、神様が中心だということです。人間中心じゃないということです。自分の便利のよかごと、都合のよかごと頂く合楽理念じゃない。という風に昨日聞いて頂きましたね。
第一このことすらもスッキリと頂き抜けていないのじゃ無かろうか、勿論、様々な合楽理念をマスターするということは、しかも、そのマスターすることそしてそれを行ずることは、非常に楽しいことなんだ、有り難いことなんだ、そして愉快にすらなるんだ。
昨日富久信会で最後に、正義先生が申しとりましたが、昨日は、これは昔から御大祭の果物だけは、正義先生がおかげ頂くことになってるんです、それで、昨日も果物を買いにやらせて頂いて帰りに、何時もその何というですかねゴーストップになりますと青のシグナルが次々と何時もそういう体験をして、神様のお許しを頂いてこんなに間違いの無いものかというような感じで、いうなら神様を身近に頂きながら信心生活をやっておる訳、ところが昨日はお供えを買いにと神様を中心にした生き方にもかかわらずピシャッと赤のシグナルが出た、どうしたことじゃろうかと思うとったら、自分の前の方に止まっておる自動車が大分のナンバーではあったけれども自分の車と同じナンバーであった。
ははあ、神様はここに気づかせてくださるんだなと思った、そのナンバーが1588という、自分の車を購入されたときも1588ということですからもう、以後広がりに広がっていくと自分の車にそう頂きそう信じておる訳なんです、ところがその大分ナンバーではあるけれども目の前に止まっているその自動車が1588という車であったとこういう、大分に沢山車も居ろうけれどもたったその1台の車がです、自分のナンバーと同じだと、さあ青のシグナルに変わった、進みだした、ずーっとここに着くまでその自動車の後ろにつかせて頂きながら、有難うして有難うして、というお話を昨日発表しとりました。
そういう一つのリズムに乗った生き方というものがです、いやが上にも信心を楽しいもの有り難いもの、いわば愉快にすらなれれる物にしてゆくのです。
日ごろの信心の稽古の焦点が合楽理念に焦点を追いて稽古するとき、心が神様に向かっている時におかげが受けられる。
昨日皆さんの発表を聞き終わったのは十二時近くじゃなかったでしょうか、富久信会が秋永先生どん兄弟三人がここにお届けに出て参りました、そしてお届けが終わって後に秋永先生が一人残って、さっき富久信会のお話を頂いとる時にこう言うような御心眼を頂きました、というてお届けするのです。 
それはどう言うようなお届けであったかというとですね、その御理解を分かりやすく申しますとですね、子供を喜ばせる、まあ4つ5つの子供をあやしたりだいたりして非常に子供を喜ばせる術は心得とるけれども大人を喜ばせることは出来んというお知らせであった。
私はこれを聞いてからね、もう、秋永先生それは本当にその通りですバイと云ったことでした。
その前の晩、日田の教励会ですから遅く帰ってきてから、文男先生が足を揉みのやって来てくれた、そしてお話をするのに、先日からも 筑水の信徒会で幹部会が、原鶴の温泉で一夜信心実習がありました、その時に秋永先生が一切をとり仕切って司会から進行のご用を承っておつた、それを弟の文男先生が見ながらね、その辺の鮮やかなこと驚いてしまうくらいに鮮やかに親方がやるという話をしとりました。
まあ、本当にそうです、そりゃもう初めてのご信者さんなんかに相対してお話をしてそれは実に親切です、けれどもそれはどこまでも子供をあやす、子供に好かれるような程度であって、大人に好かれ大人にそれだけの教導が出来ることが出来ていない、これから、そう云うことに心掛けねばならないという、その御理解を昨日お知らせ頂いたとこういうのです。
思って見てご覧なさい、秋永先生の信心はそうでしょうがそんな感じです。だから信徒会長をしてその程度ですからお互いの信心もおして知るべしなんです。
この頃、正義先生が今度の十三日会の時に研修室に参りましてね、もう合楽の話を頂いてよその話を聞いたっちゃ何にもならんごたる感じもするけれどもやっぱり、行けば行くごとおかげは頂く、そして合楽では到底まねも出来んほどしの信心があることを今度は感じた、というて十三日会に発表しとりました。
甘木の関係の方達が発表される、とてもとてもその総代でございますか幹部でございます、もう何十年信心しとりますというだけではなくて、それだけの信心とご用と内容が出来とられるということ、甘木あたりではそりゅもう何十年の歴史をもっているから、ところが合楽にはそういう信者が一人もいないということを今度は気づかせて頂いたという意味の話をしておりました。
そう云う意味でです、例えば一寸子供をあやす子供に好かれる程度のものは持つておっても大人に傾倒される大人に惚れ込まれるというほどしの信心をもっていない、云うならば、神様が惚れ込みなさるような信心は、合楽に出来ていない、いかに合楽理念を振りかざしたところでそれをいよいよ自分のものにして、どういう場合であっても合楽理念でピシッと頂いていかれるだけの信心が頂かなければでけない、いくら良いものを持つておっても合楽の場合は、芽が出来たばかりという感じであります、ですからこれから信者信奉者の一人一人がです、愈々良い田地、心が愈々豊かになる、どう言う大きなご用でも出来るだけの実力を受けなければならない、ということを正義先生はいっております。
甘木あたりではそういう信者が居ると、これも甘木関係のある教会の総代さんが発表しとったそうですがね、先生がえらいお供えのことばかり云いなさるけれどもね、親先生があげん云いなさるから、先生が云いなさるとおりに自分の財産を打ちふったっちゃお供えして見ようという気になった、とお話をされたそうです、ね、もううちの先生はお供えのことばかり云いなさるけんでと云うのではなくて、云いなさるならね、一つ徹底してお供えしようという気になった。
最近はそういう生き方から、もうそれこそ目覚ましいおかげを頂いておられる方なんです、そういう信者が合楽には居ないというわけなんです、云うなれば、女は世界の田地、合楽は世界の田地、私はそういう風に育っていかれるだろうと思うのですけども、お互い一人一人がそういう良いものが次から次と生みなされて行くだけの信心をさせて頂かなければならない、ためには一つ本気でくの一修業をしなければならないということであります。
そこから生まれて来る大きな安心立命信心を本当に頂かずして信心が巧者になる事、それこそ姑根性と云いますが女偏に古い、女の古うなったのは生みなすことがでけんです、いくら頑張ったっちゃ、婆さんに子供生めというたっちや出来ないのと同じことなんです、そして若いもんの足元ばかり見てから姑根性を回す。
合楽があげな事云うけんと合楽の足元ばかり見たり、ひなんばっかりするのはそういう信心になってしもうとるのです。
教団全体がそういう感じがするですね、活き活きと云うならば甦るおかげを頂かして貰って愈々くの一修行にしぼらせて貰う信心ね、くの一修行というのはね、もう最高の修行だという意味なんです。 
修行も様々あります、その修行の最高の修行はくの一修行による他は無い、最高の修行苦ということは修行という事、そしてそれを申しますなら食物訓の三つからその事を頂くのですけど、愈々、成り行きを大切に天地の働きをそのまま合掌して受けて天地との交流ができれる信心、それをくの一修行という、それに天地との交流そこから生まれる合楽の世界から生まれるおかげ、そういうおかげが次々と生みなされて行かねばならない。
大きな自負に立つ、または使命感に立つ、合楽は合楽理念を持ってする他は世界の平和は望まれない、合楽でと説くころそれこそ障子一重がままならぬ人の身であるという自覚がてきて、そういう自覚ので来た人達が手に手を取り合わなければ、世界の平和はありえない、ただ横にばかり手をつないでいったんでは世界の平和は望まれない、吾無力であるということを、障子一重がままならん人の身であるということ。
なすと云えなし得る恩恵条件の無くばなし得ず何一つとして、と教祖様がお読みになっているお歌のようにです、自分でなせることは何一つとて無いんだ、条件が足ろわなければなすといっても出来んのだと、いう信心が真から身についた人達が所謂、神様の前に無条件降伏した人達が、上で手をつないだときに初めて世界の平和というものが約束される。
それが千年万年かかるか知れませんけれども、そういう内容を持った合楽であり、または合楽理念なのです、そんならその理念と私どもは先づは産みなす田地を各自造っていかなければならない、その根本になるものが何といっても一にも神様、二にも神様、三にも神様という頂き方、それと三代金光様のお言葉を持ってすると「氏子が神様まかせなら神様が氏子まかせになる」と仰せられますから天地の親神様が私どもまかせになって下さるような大きな働きが頂かれて来るようになって、初めてそれこそ、前代未聞破天荒のおかげにもつながることも出来るわけです。
今日は、女は世界の田地、最近女ということについての御理解続いとりますから、合楽そのものが産みなせる内容を持っておる女である、そこでせっかく生み出されるならば良いものが生み出されなければならない。
ためにはこちら自身が良い信心を頂いておかなければ良いものは産まれないということでございます。    どうぞ